福山市 院長紹介
院長紹介

 

氏名:鈴木 直樹
血液型:B型
趣味:野球、テニス、読書
2008年の目標:まずは、予防歯科で地域№1になる。

元気が出るセルフトーク:やると決めたら絶対やる!

あなたへのメッセージ:患者様が楽しく通える歯科医院を目指しています。お気軽にお越し下さい。

院長略歴

  • 平成7年 岡山大学歯学部卒業
  • 平成7年 岡山大学歯学部付属病院 勤務
  • 平成10年 姫路市 斉藤歯科医院 副院長
  • 平成18年 尾道市 ほていや歯科 勤務 

昭和44年6月10日、山口県宇部市で鈴木家の長男として誕生しました。
父は製薬会社に勤めるサラリーマンで、朝は早く夜は遅くまで働き、平日に父の顔を見ることはありませんでした。しかし、週末には常に家族サービスに徹する、いわゆるマイホームパパでした。今思えばごく普通ではありますが幸せな家庭だったと思います。


そんな家庭を大切にする父でしたが、子供の躾には非常に厳しい人でした。数え切れないほど叱られ、叩かれて育てられました。子供ながらに反発もしましたが、それも我が子に対する愛情だと思い、今では感謝しています。


私の3つ年上に姉がおり、小学校にあがるまでは背後霊のように姉の背中を追いまわしていました。近所は女の子ばかりで、一緒にままごとやゴム跳びをして遊ぶ、女の子っぽい男の子でした。今でもはっきり覚えていますが、当時のあだ名は〝メシオちゃん″でした。おしめを反対に読む、全く嬉しくない名前でした。髪も長く、近所ではよく女の子と間違えられ、子供ながらに恥ずかしいと感じていました。当時のそうした日常はあまり楽しくなかった記憶があります。ただ、姉への依存心が強かったのです。


そんな情けない男の子でしたが、幼稚園に入園すると男友達ができ、次第に活発な男の子へと変化していきました。

 

小学校に入り野球というスポーツに出会ってからは、とりつかれたように、休み時間、放課後、そして休日…と野球ばかりしていました。


阪神タイガースと高校野球の大ファンで、特にテレビのブラウン管に映し出される高校球児の情熱に満ちたプレーに魅せられ、自分も絶対に甲子園に出場するのだと心に決めていました。そして小学3年生の時、地元の名門少年野球チームへの入部を決意しました。練習は休日は朝から晩まで、更には毎日の朝練と、厳しい環境に身を投じました。早くから野球に慣れ親しんでいたためか、同級生の中では1人だけレベルが違い、上級生のチームでプレーをしていました。ポジションは内野手で主にサードをしていましたが、ついにピッチャーを任される日が来ました。ところがノミの心臓が災いし、試合になるとストライクが入らず、失格の烙印を押されてしまいました。そんな苦い経験をしながらも夢を持ち続け、日夜素振りを続けていました。

 

しかし、そんな私の夢を応援できない人物がいました。それは父です。父は私には勉強をして有名大学に行き、一流企業に就職して欲しいと思っていました。
そんな時、転機が訪れます。最終学年を迎えようとする時、父の転勤が決まったのです。私はあまりのショックに親しい友人の前で涙を流したことを今でも覚えています。転校を機に私には今までとは違ったレールが敷かれました。学校が終わると毎日塾通い。休日も朝から晩まで塾。生活の中心が野球から勉強に変わりました。鈴木家では父親の言うことは絶対だったので、言われるままに勉学に励みました。その甲斐あってか、中学受験で大阪の某有名私立進学校に入学することができました。

ところが入学した学校はまるで軍隊のようなモーレツシゴキ教育でした。計算問題の間違えた数だけ下敷きを縦にして渾身の力で叩かれたり、精神注入棒なる木の棒で太ももの裏を力いっぱいしばかれたりして、傷やあざが絶えない生活でした。今の時代では考えられません。そんな中、大半の生徒たちは有名大学を目指し、ただひたすら勉強し続けます。一方で、そんな教育に反発を覚える人間も出てきます。私もその一人でした。それは社会への反発だったのかもしれません。勉強で存在感を示すのではなく、当時で言う「ツッパる」ことで自分の存在を示していました。その頃、常にウォークマンで尾崎豊を聴いていました。


当然、落ちこぼれ、行ける大学なんてありませんでした。その時私は初めて人生の挫折を味わいました。自分はこれからどうすればいいのだろう、どこへ向かえばいいのだろう。先の見えない迷路へと迷い込みました。悩みました。不安になりました。泣きました。そんな日が続きました。そしてある時気付きました。自分は他人に迷惑ばかりかけているが、誰の役にも立っていないと。自分の存在価値を見失いました。そんな時、私の心の中に亡くなった母の姿が思い出されました。私の母は看護師でした。母は常日頃から看護師とは人を助けることができる素晴らしい職業だと言っていました。私は自分が情けないと思いました。そこで決断しました。「人の役に立ちたい、そしてそうなれる素晴らしい職業に就こう。」それが医者でした。

 

高校卒業後すぐに代々木ゼミナールの門を叩きました。高校時代本当に勉強しなかったので、ほとんどゼロからのスタートでした。ただ自分の中には揺るぎない志がありました。今度は父の意志ではありません。自分の意志です。1年間、雑念を捨て、一心不乱に勉強しました。その結果、医学部には入れませんでしたが、岡山大学歯学部に合格することができました。

苦しくてつらい1年間の反動が出たのでしょうか、入学後は水を得た魚のように遊びました。当時はテニスサークル全盛の時代で、大学に入ったら絶対テニスサークルに入って女子大生とチャラチャラとテニスをするのが夢でした。ところが歯学部はカリキュラムの関係で他の女子大との合同のサークルには入れなかったのです。夢は儚く消えました。そんな時先輩からの誘惑に負け、歯学部の体育会系熱血テニス部に入ってしまいました。クラブ活動を通じて、皆で協力し合い、目標に向かって全力投球することを学びました。個人的に残した成績はあまりパッとしませんでしたが、その経験は財産となり、歯科医院を開業後も大きく活かされています。今でも当時の同級生や先輩や後輩からは大きな刺激を受け、自分のモチベーションアップに繋がっています。

卒業後、大学病院に勤務し、歯周病治療を専門にしている講座に所属しました。歯科医師になったばかりの私はそこで医療人としてのモラルや「考えること」を学びました。早く一人前の歯科医師になりたいと思い、先輩をつかまえ夜遅くまで勉強していました。ただ、大学病院は研究機関であるため、臨床をすることに飢えていた私は3年で退職し、臨床を思う存分できる開業医へと進むことになりました。

 

大学病院から週1回出張に行っていた姫路市の開業医に就職することにしました。なぜそこに就職することにしたかというと、院長の患者様に接する姿勢の素晴らしさに共感したからです。治療においても妥協がなく、常に患者様を第一に考えており、多くの患者様に信頼され、愛されています。自分も何年か先にはその先生のようになれたらと目標にしていました。その医院での8年間は私の歯科医師としてのあるべき姿が形成された時期でした。昔のように「患者を診てやっている」というのではなく、「診させて頂いている」という謙虚な姿勢はこれからの歯科医師に求められるものだと確信しました。その先生との出会いがなければ今の私はありません。そのくらい私の人生を大きく変えた出会いでした。

平成18年5月、縁あって福山市春日町で開院しました。
自分だったらこんな歯科医院に通いたいと思えるような、魅力ある歯科医院作りを日々目指しています。当院に来ていただいて他の医院との違いを感じてもらえるよう、スタッフと一体となってがんばっています。また、患者様のニーズに応えられるよう常に技術の向上に努め、毎日欠かさず勉強し、休日は大阪や東京のセミナーに通っています。
息つく暇もなく毎日全力疾走していますが、人間人生の中で一度は命を懸けるくらいがんばらなければならない時があると思います。私にとってそれが今なのです。自分の可能性は無限大です。常に向上心を持ち続け、常に新しいことにチャレンジしていきたい。それが患者様のためになると信じて…。

最後まで読んで頂きありがとうございました。